日本交通協会 アドライブラリ 日本交通協会の100年にわたる歴史を貴重な資料とともにご紹介。

日本交通協会には歴史的価値の高い資料が多数保存されております。
その一部の鉄道ポスターをWEBで公開していますので是非ご覧下さい。
写真をクリックすると拡大されます。

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昭和12年5月~昭和39年3月

明治32年帝国鉄道協会が設立してのち
38年間は表書きに「帝国鉄道協会会報」とだけ記載して発行されておりました。
昭和12年、その最終号のあとがきには「それまでは編集者の片手間仕事、発効日はデタラメ、誌面も不統一と言うダラシナサでまことに相済まぬ」と記されております。
昭和12年5月ようやく「汎交通」と改題され再スタートをきりました。
表紙は雲形、波頭、線路をイメージして描かれており航空機、船舶、鉄道の時代になったということを表しております。この表紙絵の作者は不明ですが色を変えながら昭和39年3月まで続きます。

昭和39年4月~昭和41年4月

昭和39年4月編集者が加わり表紙も新しくなりました。
大正3年12月に開業した日本の玄関口、赤煉瓦造りの丸の内駅舎のスケッチが白川洋筰氏の手によって描かれました。
この表紙は41年4月まで続きます。
昭和40年「汎交通」は月刊誌となりました。

昭和41年5月~12月

三菱九号館。その昔、三菱ヶ原に唯一あった建物でここに三菱本社、三菱銀行本店が入っていました。明治建築の指導者、建築家コンドルの作品。
帝国鉄道協会は帝劇、生命保険協会に次いで4、5番目に三菱ヶ原に建築された建物。大正5年2月に建てられた当時はこの協会の建物には珍しがって見物人の波が沢山 押し寄せてきたと書かれています。
残念ながら昭和41年、この表紙の汎交通が出された頃にはすでに壊され9階建てのビルの工事が進行中であったと記されております。
表紙は正木智海。昭和41年5月から12月

昭和42年1月~12月

有楽町の赤煉瓦造りの連続アーチの高架が描かれています。
スケッチにサッと色を載せた絵ですが高架のホームには山手線が停まり下のアーチからは車が出て来るという活動的な絵柄は 当時の活気づいた街の空気を表しています。
左の出口付近には靴磨きの人が見えます。
昭和42年1月から12月
正木智海の作品

昭和43年1月~12月

にぎやかな新幹線ホームを華やかな色調で描いた汎交通の表紙は昭和43年1月から12月まで続きました。岡宮千賀の作品です。
新しい乗り物で期待に胸ふくらませこれから旅に発つ様子が温かく、ほっとする作品です。この絵の背景に交通機関内の爆発による殺人、重軽傷者の続出、交通機関の鉄道事故、大きな汚職背任事件などがあり暗い世相を意識した明るい表紙づくりを心がけたものと思われます。

昭和44年1月~12月

弁慶号  昭和44年1月から12月。
作品は線路わきに子供たちが立って身近に弁慶号と接している珍しい図柄です。走り出したばかりなのでしょうか。
岡宮千賀作

昭和45年~昭和46年

他の表紙絵と違いかなりデザイン重視のモダンな雰囲気になりました。
典型的なアメリカ古典機スタイル。大型のダイヤモンドスタック(火の粉止め)を取り付けた煙突、全面の牛よけのカウキャッチャー、煙突の後ろのベルなどが特徴です。
昭和45年1月から12月までが背景に白い☆、そのあとの1年間は背景に赤い☆が用いられています。
岡宮千賀作
当時の新年互礼会は講談の宝井馬琴の熱演があり前年に引き続き大好評だったと記されています。

昭和47年~昭和50年5月

45年から汎交通の連載の挿絵を描いていた内田克己が表紙絵を担当しています。
昭和47年から50年5月
明治の錦絵曜斉国輝(曜斉は号 幕末から明治時代の浮世絵師。開化絵で知られた)の東京名勝之図に鉄道を描き加えたイラスト。手前に馬車、次に鉄道、奥に新幹線という構図です。

昭和50年6月~昭和55年12月

昭和50年6月から55年12月の表紙
「門司港駅」の一部
富田利吉郎は国鉄職員として働きながら暇を見つけては全国にスケッチ旅行。蒸気機関車、機関庫、駅舎などが得意。

昭和56年~平成24年

会員さんにはおなじみの長濱正雄氏の煉瓦造りの東京駅の表紙絵は昭和56年から平成24年まで31年間続きました。

日本交通協会アドライブラリー Backnumber

明治五年作成 鉄道寮事務簿